グイノ神父の説教

 

2024  B年

復活節から

キリストの聖体まで


   

主の復活の祭日
復活説第2主日
復活説第3主日
復活説第4主日
復活説第5主日
復活説第6主日
主の昇天の主日
聖霊降臨の祭日
三位一体の祭日



       主の復活  B年    2024331日     グイノ・ジェラール神父

        使徒10,3437-43   コロサイ 3,1-4 又は 1コリント 5,6-8   ヨハネ 20,1-9

 イエスは死から命に移り、実際によみがえりました。 復活祭のお祝いは神とのランデブー「愛の出逢い」です。 復活したイエスは人類を神との親密な関係に導きました。 世の光であるイエスは私たちを照らし、その光の中で私たちは光を見ることができます(参照:詩編 36,9 )。 かつてこの詩編が預言したように、「イエスはすべての人々を照らす命の泉」です。

 私たちは聖土曜日の夜、新しい火を祝福することによってこのことを宣言しました。「御子を世の光としてわたしたちに与えられた神よ、新しい火を祝福してください。この過ぎ越しの祭りによってわたしたちが新しい希望に燃え、清い心で永遠の光を受けることができますように」と。復活の光によって、私たちが神をより深く知り、神が私たちを愛してくださったように神を愛することができ、そして永遠の光を迎えることができますように。


復活するということは、永遠の現在を生きることであり、神の臨在の中で生きることです。存在とは何なのか、私たちはどう言えばいいのか分かりません。愛する人々と共に集まることが私たちを幸せにします。しかし、この幸せは脆いものです。私たちの恐怖とは、愛する人々の不在、彼らから離れること、彼らの存在を感じられなくなることの恐れや恐怖ではないでしょうか?

 早朝に墓に行った婦人たちは、最後にイエスの遺体を見ることで、亡くなったイエスが彼女たちの心に残した不在の空白を埋めたいと思っていました。しかし、彼女たちは墓で出会おうとした死者がこれまで以上に生き生きとしていることに気づいて驚きました。復活したイエスは婦人たちの心をご自分の神聖な現存で満たしました。それを奪うことは、どんなものにも、誰にも決して出来ません

 復活の出来事を女性たちによって語られるのは正しいことです。 受難の物語では、もっぱら男性たちによって行われた行為が語られています。それは 残酷で血な生臭い物語でした。女性たちは私たちに平和のメッセージと復活の良い知らせを伝えてくれます。彼女たちは私たちに与えられた新しい命の最初の証人です。この命は死に打ち勝って、神の慈しみ深い腕を私たちに大きく広げています。


 マグダラのマリアは、死んだイエスを対面で見ました。イエスは彼女の前に立って、実際に生きていて、彼女と話しています。特にすべての人にご自分の復活を告げるよう彼女に頼みます。今日、この使命を担うのは私たちです。確かに、 私たちは、世の終わりまで私たちのそばにいてくださるイエスの臨在の証人です。主イエスは、その栄光に満ちた体をもって、すべての人と実際に、具体的に接しておられます。確かに、イエスは私たちの魂の奥底を訪れ、「新しい人として」私たちを変化させ、形作ります。復活したキリストが私たちを平和の内に永遠の幸福へと導きますように。この幸福は私たちの内に神がで永遠に臨在していることです。 アーメン。

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   復活節第2主日 B年 「慈しみの日曜日」 202447  グイノ・ジェラール神父

              使徒4,32-35      1ヨハネ5,1-6       ヨハネ20,19-31

 イエスは復活しました。この出来事に対して、イエスの弟子たちは自分たちが見たこと、理解したことを私たちに語ろうとしました。 復活したイエスは、弟子たちが知っていたイエスと全く同じ人です。たしかに、アラム語を話すイエスの声、イエスの顔、歩き方、しぐさによって弟子たちはイエスをはっきりと認識しています。 イエスは幽霊でもこの世をさ迷っている亡霊でもありません。 弟子たちは皆イエスを見ること、触れること、彼の手と足に釘の跡を見ることができます。 この 復活したイエスは、まさに十字架につけられて死んだイエスと同じ、疑問の余地のないイエスです。


 イエスは変っていません。以前と同じように弟子たちの前に立っていて、彼らに謙虚と優しさを示し、時々ご自分について疑問を持つ人々を厳しく咎めています。イエスの教え方は今も変わっていません。 しかし、それでも何かがとても違います。 実際、イエスは、空間、時間、物質、感情で構成されている私たちの世界には、もはやいません。私たちのように制限されていません。 ペトロ、ヤコブ、ヨハネはすでに変容の出来事に参加した時に、その驚くべき不思議な変化を目撃して体験していました。

 しかしイエスは、ラザロやヤイロの娘やナインの未亡人の息子のように決してよみがえりませんでした。 イエスは栄光の中に生きています。 イエスは「栄光」そのものです。ご存知の通り「栄光」とは、ユダヤ人の目には神に宿る属性です。 イエスは「栄光の主」「命の泉」「神ご自身の神秘」です。 使徒たちはイエスを見て触れることによって、具体的に神を見て触れました。 その理由で、イエスを見、触れたトマスが「私の主、私の神」と叫びました。 実に、復活されたイエスを見るとき、人が言えるのはこれだけです。

 
人類の歴史の中でユニークな時期である復活節は、真の神であるナザレのイエスについて深く考える機会を私たちに与えています。 この信仰の重大な神秘は私たちに命を与え、希望を強め、育みます。 キリストの復活は私たちを喜びと感謝で満たします。 キリストの復活は私たちを神の親密さと栄光に導きます。 これらのすべての事実は、私たちにご自身の平安、即ち、神の平安を与えてくださるイエスの言葉の中に表現されています。「あなたがたに平和がありますように」と。

 イエスは自分の傷を示すことによって私たちに平安を与えてくださいます。その理由は、神の平和が私たちの傷をすべて癒し、私たちの疑いを散らし、信仰と希望を強めてくれるからです。 預言者イザヤがかつて宣言したように、「彼の受けた傷によって私たちが癒された」(参照:イザヤ書 535)と。

 ですから、肉の目ではなく、愛と感謝の心の眼差しで復活されたキリストを見るように学びましょう。 イエスは本当に復活されました。イエスは私たちの命であり、私たちの赦しであり、私たちの平和と終わりのない喜びです。何よりもイエスは私たちの贖い主と救い主であり、永遠にご自分の栄光を分かち合うために、私たちに呼びかけてくださる慈しみの神です。その慈しみを今日私たちは世界に広がっている教会と共に祝っています。 アーメン。

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     復活節第3主日  B年  2024414日  グイノ・ジェラール神父

          使徒3,13-1517-19     1ヨハネ2,1-5     ルカ24,35-48

 復活の時期は、人類の歴史の中で唯一無二の時期です。 イエスの弟子たちは復活したキリストを見て実際に彼に触れました。 しかし、見て触れたからといって必ずしも信じることができる訳ではありません。理解し始めるには、見たもの、触れたものを心と思いに留めておかなければなりません。 しかし、神のみ言葉の支えがなければ、私たちはキリストの復活が何を意味するかを理解することは到底できません。 イエスが弟子たちの心の目を開いて聖書を理解できるようにしたのはこのためだったのです。

 私たちは弟子たちのようにイエスを見たことも触れたこともありません。しかしキリストを見たこともないのに彼を信じている私たちが、信仰によってイエスを手に受け取り、心にイエスを迎え入れることができるのです。 ですが、聖体拝領の秘跡の神秘を理解するには、聖書の本文を読んで黙想することが必要不可欠です。 イエスは受肉した神のみ言葉であり、神そのものでもあります。 そういう理由で、イエスが私たちにこう言いました。 「わたしを愛する人は、わたしの言葉を守る。わたしの父はその人を愛され、父とわたしとはその人のところに行き、一緒に住む。 わたしを愛さない者は、わたしの言葉を守らない」(参照:ヨハネ14,2324)と。

 キリストの御体と御血をご聖体として拝領することと、キリストのみ言葉で自分を養うことは、すべての信者にとって必要なことであり、死活問題です。 神のみ言葉を読んで黙想することで得られる知恵は、私たちの内に留まる神の神秘、そして神の内に留まる私たちの神秘をより深く経験させてくれます。何よりも神のみ言葉を読んで黙想することは、私たちが神を愛していることを神に証明するもっと良い方法です。

 神のみ言葉、命のパン、救いの光、そして私たちの命である 復活されたイエスは、私たちを神の命で生かしてくださいます。 復活されたイエスへの信仰は、私たちの全存在が神の命と栄光に一致するのです。私たちの誕生、そして私たちの死、私たちの行動、私たちの失敗と成功、私たちの食べ物、私たちの睡眠、すべてが今では神と繋がっています。そのことをよく理解した聖パウロは私たちに次のように薦めています。「あなたがたは食べるにしろ飲むにしろ、何をするにしても、すべて神の栄光を現すためにしなさい」(参照:1コリント10,31)と。または「わたしは確信しています。なにもわたしたちの主キリスト・イエスによって示された神の愛から、わたしたちを引き離すことはできないのです」(参照: ローマ 8,38)と。

 復活されたイエスに対する私たちの信仰の神秘を完全に理解し生きるには、多くの時間がかかるため、聖書の本文を頻繁に読んだり、読み直したりすることが必要です。私たちは決して「知っています」などと言うべきではありません。神のみ言葉はいつも新しいものとして、私たちを日々新しくするのですから。

 イエスが「神のみ言葉を守ることは愛の行為である」と私たちに言うなら、受肉した神のみ言葉であるイエスが無限の愛で私たちを愛し、私たちを神に属する者として保ち、神の貴重な財産として保ってくださるということも理解させてくださいます。 ですから、一緒に神に感謝し、復活祭の喜びが私たちの信仰を強め、私たちの顔を輝かせますように。アーメン。

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        復活節第4主日 B  2024421日 グイノ・ジェラール神父

          使徒 4, 8-12      1 ヨハネ 3, 1-2      ヨハネ 10, 11-18

 エルサレムの大議会の邪悪な願望に従って十字架につけられたイエスは、まことに救いと永遠の命の親石です。 大祭司、ヘロデ派、サドカイ派に拒絶されたイエスは自分の大好きな羊である私たちに自分の命と愛を捧げてくださった良い羊飼いです。 自分の敵対者である律法学者やフィリサイ派の人たちから嘲笑され、侮辱され、中傷され、罵られたイエスは、神によって復活され、私たちを癒し、罪と死から救い出してくださるお方です。 今日、復活祭の第 4 日曜日に当たって、私たちはこれらの事実を祝っているのです。

 この日曜日、私たちは特に召命のために祈っています。世界中に広がっている教会と共に、神が、キリストに似ている司祭を与えてくださるように私たちは願っています。イエスの名において、イエスの愛の証人として、例外なくすべての人に神の平和と救い、聖霊の喜びと交わり、そしてイエスと親密に結ばれる幸福をもたらす司祭がこの世界には必要です。

 イエスはご自分の羊を知っており、永遠の愛で彼らを愛しています。 イエスへの信仰を通して、私たちはイエスの群れとなったので、イエスを知り、イエスを愛し、隣人を自分自身のように愛することができるという賜物を受け取りました。確かに、良い羊飼いであるイエスの言葉に耳を傾け、イエスの手で必要な食べ物やケアを受けるために、私たちは毎週日曜日ここに集まります イエスは私たちの人間的、霊的な生活の基礎です。 私たちが信仰宣言を大声で宣言するたびに、イエスこそが私たちの人生を築くための堅固な岩であると公に宣言しています。

 イエスは私たちのために命を捧げることをずっと続けています。決してやめません。 実際、私たちがここに集まって一緒に祈り、聖体拝領をするたびに、私たちは実際に主イエスと一つの体、一つの魂、一つの霊となる程に、イエスと親密に結ばれています。 これが真実であり、愛の神秘であり、私たちがイエスへの信仰を生きることを可能にする偉大な神秘です。 たとえ何も見えなくても、何も感じなくても、私たちはまさにキリストの体と血、手、顔、そして皆に与えられたイエスの命なのです。

 ご自身についてはっきりと語られたイエスの言葉を何度も聞き、また何度も聞き直すことによって、私たちはこの大きな神秘の現実を理解することができます。 「わたしの羊は私の声に耳を傾け、わたしを知っています。それは、父がわたしを知っておられ、わたしが父を知っているのとおなじである」とイエスははっきり私たちに言い納得させよとします。

 神が私たちと分かち合い、与えてくださるこの不思議で並外れた親密さについて、他に何を言うことができるでしょうか 謙虚に感謝の気持ちを持ってイエスを自分たちの心に迎えましょう。なぜなら、聖霊の力でイエスは私たちをご自分の命で生きさせ、また私たちをご自分の神性と結びつけるために来られるからです。 アーメン。


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       復活節第5主日  B年 2024428日   グイノ・ジェラール神父

          使徒 9,26-31       1 ヨハネ 3,18-24      ヨハネ 15,1-8

 「言葉や口先だけではなく、行いをもって誠実に愛し合おうと聖ヨハネは私たちに思い起こさせています。このように、かつてキリスト者たちの迫害者であったパウロを最初に自分の友大切な協力者としたのはバルナバでした。 そのときに多くの人がパウロを恐れていたので、彼を避けていましたが、バルナバのこの愛の行為は教会全体にとって、また福音の迅速な普及にとって有益でした。

 「わたしにつながっていなさい。わたしがあなたがたにつながっているように」とイエスは私たちに要求します。どんなことがあっても、どんな状態に置かれていても、キリストに繋がっているなら、私たちはすべての人にとって有益で永遠に残る実を結ぶことができます。イエスとの繋がりを持ち続けるために、私たちは偏見、虚栄心、非難を無視する慈悲深いまなざし、特に愛のまなざし、信頼を呼び起こすまなざしを身につけなければなりません。 もちろんそれは簡単なことではありませんが、社会から孤立している人々に近づくことによって、神の平和が最もかたくなな心に侵入することができます。 隣人を愛することで、私たちは「神の御前で安心できます」と聖ヨハネははっきと教えています。

 私たちが木の幹であるキリストに接ぎ木されたままであれば、必ず他の人たちに役に立つ命と希望をもたらす実を結びます。 真実であり続けるためには、私たちの信仰は感謝と祈り、神の言葉と赦しと聖体の秘跡によって常に養われなければなりません。 神の御前で安心できることによって、私たちは真理のうちに生き、キリストとの一致の繋がりが強くなります。確かに、平和な心を持つことで、他の人にもっと奉仕したり助けたりすることができるようになります。

 ミサ祭儀は私たちを個人的にも共同体的にもキリストの体と魂と一つにするので、私たちは出会うすべての人にとってキリストの声、身振り、慈しみにならなければなりません。「あなたがたがわたしにつながっているなら、望むものを何でも願いなさい。そうすればかなえられる」とイエスは私たちに保証してくださいました。 これは私たちが本当にイエスと一つになったことを証明し、私たちの人生が神の栄光をもたらしていることをも証明しています。「わたしの父の栄光とはあなたがたが豊かに実を結び、わたしの弟子となることです」とイエスは私たちに教えています。

 
イエスとの結びつきを保とうと努力する人は、皆イエス自身とあらゆる面で親密な交わりの中で生きていることを、今日イエスは私たちに明らかにされました。教会の交わりの中で、私たちは極めて重要な意味でイエスに生命の愛着を持っています。もはや私たちが生きているのではなく、キリストご自身が私たちの中に生きているのです。しかし、イエスの生命力は、自由に働く事ができる時にのみ私たちの中で効果的に働くことができます。

 イエスなしでは私たちは何もできないことを私たちはよく知っています(参照;ヨハネ15:5参照)。だからこそ、私たちはイエスのことをよく思い出し、自分の行動と希望のすべてをイエスに委ねなければなりません。 イエスが私たちの考えと生き方の中心にあるなら、私たちは必ず神に栄光を与える実を結び、私たちが真にイエスの弟子であることを証明するにちがいありません。アーメン。

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      復活節第6主日 B年  202454日   グイノ・ジェラール神父

        使徒 10, 25-48     1ヨハネ 4, 7-10     ヨハネ 15, 9-17

  神には「愛」という名前があります。 神は愛のうちに、永遠の昔から人間を創造し、人間とともに生きようと願われました。 神は私たちに近づくために、また私たちに対するご自分の無限の愛を伝えるために、愛から、御子イエスを遣わされました。たしかに、人類の歴史は愛の物語です。

 コルネリオの洗礼のエピソードから、イエスの弟子たちはすべての人を救うという神の計画を理解し始めました。 神の愛は文化や国境を知らず、例外なくすべての人に向けられています。 聖ヨハネは自分の手紙の中で、愛と命は神ご自身から来るものであるため、愛することと生きることは同じことであると私たちに思い出させています。「愛する者のために命を捨てること、これ以上に大きな愛はない」とイエスは私たちに教えています。 神は私たちを愛することによって私たちをご自分の子どもとし、その愛が私たちを生かしてくださるのです。 だからこそ、イエスは私たちに互いに愛し合うよう求めておられるのです。 神の愛はキリストによって私たちを神の命に結び、兄弟姉妹として形作りました。


 イエスが弟子たちに愛の戒めを与えるとき、彼は世界の救いのために自分の命を捧げていることをはっきりと知っています。 最後まで愛することはイエスにとって喜びの泉です。 愛がなければ喜びは決してありません。 イエスが与える喜びと命は、復活の日に現れるでしょう。十字架につけられた愛は、罪、悪、死から世界を救い出し、生かしました。

 
「父がわたしを愛してこられたように、わたしもあなたたちを愛してきた」とイエスは言いました。イエスは決して「父があなたたちを愛してこられたように、私もあなたたちを愛してきた」とは言いませんでした。イエスは御父が自分に対して抱いておられる愛について語っています。 御父が抱いておられるこの愛こそが、自分が愛されているように、私たちを愛するようにイエスを駆り立てるのです。 私たちは自分の力だけで愛することができると考えていますが、この愛は必ず限界にぶつかります。 私たち自分自身が個人的に愛されなければ、私たちは誰も愛することはできません。

 「あなたたちが私を選んだのではなく、わたしこそあなたたちを選んだのである」とイエスは断言しました。選ばれるということは、個人的に注目され、愛されるということです。 イエスは私たちを選び、私たちのために死ぬほど私たちを愛し、その愛は無限です。 神が私たちを愛することを選んだのは、私たちが「神の目に価高く、尊い者である」からです(参照:イザヤ 43,4)。神は私たち一人ひとりをご自分の独り子とみなしているのです。神の喜びが私たちの人生に入り込んで、私たちが神聖な者となるために、私たちはこれをしっかりと信じなければなりません。 「わたしがこれらのことを話したのは、わたしの喜びがあなたたちの内にあり、あなたたちの喜びが満たされるためです」とイエスは私たち一人ひとりに打ち明けます。

 私たちに対する神の計り知れない愛を信じれば信じるほど、私たちはお互いをもっと愛するようになります。 私たちは義務からではなく、神が私たちを愛されているように私たちを駆り立てる聖霊の力によって、私たちも同じ愛でお互いを愛することになります。 あらゆる試練を超え、あらゆる失敗を超え、あらゆる罪を超えて、私たちはいつか必ず喜びで満たされるでしょう。なぜなら、神はこれまで誰も愛したことがないほど私たちを愛しているからです。 アーメン。

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      主の昇天の主日 B年  2024512日    グイノ・ジェラール神父

           使徒4,1-11    エフェソ1,17-23     マルコ18,15-20

  クリストファー・コロンブスが新世界を発見したとき、人類が初めて月のに足を踏み入れたとき、全人類は大いに将来に前進する跳躍をしました。 政治、宗教、経済、社会の分野ですべてが変化しました。 同様に、キリストの昇天の出来事は、神への信仰に新しい力を与えました。つまり福音宣教の活力を与えました。 「全世界に行って、すべての造られたものに福音を宣べ伝えなさい」とイエスは私たちに勧めています。

 福音宣教を達成するために、神は使徒たち、預言者たち、福音の宣教師たち、司祭たちという賜物を全人類に与えた、と聖パウロはエフェソ教会への手紙の中で思い出させています。 主の復活の出来事によって、キリストと全人類が死から命に移ったことを福音宣教者たちは私たちに語り、証しています。福音宣教者たちは、主の昇天の出来事によって、キリストと人類は地上から天へ移ったことを宣言します。 聖霊降臨の出来事によって、キリストと人類はイスラエルの地から世界の果てまで遣わされていることを福音宣教者たちは教え伝えています。

昇天したイエスがこれからは神の右に座しています。これは、イエスが神の右に等しく位置し、目に見えるものと目に見えないものに対する神の支配に関係していることを意味します。 しかし、イエスは私たちと共に留っています。それは私たちの信仰と希望を強め力づけるため、また、救いの良い便りを広めるというご自分の教会の使命を支援するためです。 実に、イエスにおいて、全人類は神と一つになるために「天に引き上げられた」のです。 このことをよく理解した聖パウロは、「キリストによって、体全体は愛によって造られている」(参照:エフェソ 4, 16)と説明しています。

  聖体拝領後に司祭が唱える祈りがそれをよく表しています。 「私たちがまだ地上にいる間に天のたまものを与えてくださる神よ、あなたのそばにいるキリストと共に私たちが生きるという大きな希望を与えてくださるように」と(ラテン語の正しい訳)。

このように、キリストの昇天は、信者たちに神の愛と栄光をもたらし、信者たちを一致させます。私たちの父なる神の御心に従って世界が変えられるように、私たち一人ひとりがこの無限の愛と栄光を求めなければなりません。

 「イエス・キリストは主です」。「イエス」は彼の人間の名前であり、「主」は彼の栄光の称号です。 この日に当たって、私たちはご自分の使命を完全に実現した後、神のうちに永遠に確立されたイエスを祝います。 イエスは天の最も高いところに昇ることによって、ご自分に属する全人類連れて行き、私たちをご自分と共に高めてくださいます。 これからは、全人類はイエスを通して神の右の座に着いているのです。 イエスが無限な愛をもって、全人類を御父の側にしっかりと座らせているのです。全人類はこの場所から絶対動かないでしょう。 そうであれば、絶えず神に感謝の気持ちを表しましょう。 私たちは増々キリストにしっかりすがりつき、父なる神の愛する子どもとしてお互いを歓迎し合いましょう、アーメン。

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     聖霊降臨の祭日  B年  2024519日  グイノ・ジェラール神父

 
        使徒2,1-11    ガラテ 5,16-25     ヨハネ15,26-16,15

 16 世紀のスペインの偉大な神秘家である十字架の聖ヨハネは、私たちのために次のような美しい文章を書きました。「聖霊のそよ風はこの上なく望ましいものであり、各魂は、自分の庭を通して吹き抜けるように求めなければなりません。それは、神の神聖な香りが人の魂から吐き出されるように」(霊的賛歌 B、スタンザ 179)。聖霊降臨の日に当たって、私たちが本当に生きるため、この聖霊のそよ風を受けられるように願いましょう。なぜなら、私たちに命を与えてくださるのは聖霊だからです。

 聖霊は愛の螺旋(らせん)のようなもので、神のいのちそのものを私たちに伝えます。聖霊は私たちの父なる神とその愛する子イエスとの一致です。また、私たちを神と親密に結びつけるのは、この同じ聖霊です。

 聖霊は愛の霊です。風の息吹が聖霊のイメージだとすれば、その本当の名前は「アガペ、愛徳」です。無尽蔵の優しさの源である聖霊は、神が私たちを愛するように私たちが愛することを、教えに来てくださる方です。私たちをご自身に似せて創造された神の願いを聖霊は私たちの内に成就するために来られます。罪は私たちが持っているこの類似性を破壊しようとしています。だからこそ、私たちの愛する能力を強化し、教育するために聖霊が私たちに豊富に与えられるのです。私たちの心の中に、私たちの生活の中に、真実の愛の行いがあるとすれば、それは聖霊が私たちに与えられたからです (参照:ローマ5.5)

 聖霊のおかげで、神は私たちの心の中に宿り、私たちの存在を分かち合い、私たちと親密につながることができます。私たち一人一人に与えられた聖霊は、私たちのキリスト教共同体にも与えられています。なぜなら、神は私たち皆をご自分のうちに一つに集めたいと願っておられるからです。神の愛が、私たちの小教区の一致を作り、世界中のすべての信者と一致させます。なぜなら 信仰によって私たちはキリストの教会であり、その神秘的な体であるからです。

 私たちは知っています。「教会の活動はさまざまあり、賜物にはいろいろありますが、それをお与えになるのは同じ霊です…一人一人に“霊”の働きが現れるのは、全体の益となるためです(参照:1コリント1247)。聖霊はすべての人の利益のために私たちに与えられています。聖霊は私たちの心を広げ、他者への愛を持って行動できるようにする贈り物です。確かに、私たちの愛徳の行いはすべて、私たちの内にある聖霊の働きの目に見えるしるしです。

 
聖霊降臨の祭日に当たって、「私たちに与えられた聖霊によって、私たちにご自分の愛のすべてを注いでくださった」神に感謝しましょう(参照:ローマ5:5)。そして特に、私たちの内に働いて愛の完成に導いてくださる聖霊にも大いに感謝しましょう。アーメン。




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